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2014年11月15日

【熊本・城めぐり】南関御茶屋

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【熊本・城めぐり】織豊期のお城・南関城(なんかんじょう)





南関御茶屋

現在の南関御茶屋は、嘉永5年(1852年)頃建てられたもの。

修復して今はきれいだから、これが150年以上も前のものとは思えないが・・・

この御茶屋は細川家だけでなく、相良家や島津家も利用していた。

篤姫が薩摩から江戸に行くのが1853年。細川さんは篤姫が徳川のお嫁さんになることを知っていたんだろうか? もし知っていて、それに合わせて、この御茶屋を建て替えとしたら・・・ なーんてこれは私の妄想w





















南関御茶屋は国指定なので、修理するのも縛りがある。

建物の7割は残さなくてはいけないので、廊下の板も継ぎ接ぎ。残せるものきちんと残さないといけないので、却って修理も大変だと思う。

でも、こうやって歴史的建造物は残されていくんでしょうね。



南関御茶屋
南関町大字関町1141-2

開館時間・・・9時半から16時半
休館日・・・火曜日(祝祭日の場合は翌日)



おわり
  


Posted by 夢☆子 at 10:522014.11 熊本・城めぐりの旅

2014年11月12日

【熊本・城めぐり】織豊期のお城・南関城(なんかんじょう)

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【熊本・城めぐり】古代のお城・鞠智城(きくちじょう)





富士山に似ていることから『南関富士』と呼ばれている大津山。

南関城ができる前は、ここに室町時代に大津山氏初代・資基が築城した藟嶽城(つづらがだけじょう)がありました。

今も石積みや堀切が残っているそうでいつか行ってみたい。


藟嶽城(つづらがだけじょう)を廃して築ったのが南関城(なんかんじょう)。別名・鷹ノ原城(たかのはらじょう)。

南関城は築城開始からわずか15~16年で壊された短命のお城。

築城は慶長5年(1600年)。当時の城代・加藤美作の願いにより、加藤清正が築城を許し完成。

完成したものの、江戸時代に入り、一国一城令が出され、築城からわずか15~16年で壊された。

壊したのは細川忠利の時代。ただ単に壊すだけでなく、ここは石垣の下方まで徹底して壊し、石材は空堀の底一面にびっしり敷き詰め土で覆い隠すという徹底ぶり。

なぜ、ここまで徹底したかというと、先の天草・島原の乱で原城の壊しかたが適当だったため、一揆勢が立て籠ったので、細川忠利は徹底して破壊したと思われる。

天草・島原の乱のようになったら困るから徹底したと思うが、清正の美しい石垣を壊すのは辛いものがあったのではないだろうか。

いや、生真面目な忠利のことだから、徳川ににらまれないために無心で壊していったかな。

お城というと築城に目を向けがちだが、破城の観点から見るお城も当時の様子を伺い知ることができる。

平和な現代、お城はロマンだ。築城も破城も魅力過ぎる。






本丸南入口。一番下の石垣が残っています。





本丸

南関城は端城。でも、ここは佐賀の名護屋城とほぼ大きさが同じ。端城という規模じゃない。

今はほんの少し石垣が残っているだけだが、何もないからこそ、想像力が働き頭の中で、当時の南関城を勝手想い描き歩を進めた。





本丸に栗がいっぱい!





ここは本丸の横なんだけど、石垣から櫓があったものと思われる。

石垣がきれい。清正が関わったお城は本当に石垣の積み方が美しい。































ここは西の出入り口。

よーく見ると虎口になっている。












私、歴史は好きだけど、けっしてお城マニアではない。お城めぐりは好きだけど、お城は奥深く、まだまだ勉強不足。でも、今回廃城を見て、お城の魅力に完全にはまった。

お城ロマンを追及していきたい。





官軍墓地。西南戦争のときに薩軍と戦った人たちのお墓。

なぜ、城跡に建てたんだろう? スペースの関係だろうか?

この近くにそれとも正勝寺が近いからかな。

正勝寺は西南戦争時、有栖川宮熾仁親王が本営をおかれ場所です。今回時間がなくて正勝寺は場所の確認をしただけ。。。 次回、じっくり拝見したいな。


つづく
【熊本・城めぐり】南関御茶屋
  


Posted by 夢☆子 at 12:012014.11 熊本・城めぐりの旅

2014年11月11日

【熊本・城めぐり】古代のお城・鞠智城(きくちじょう)

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【熊本・城めぐり】竹迫城(たかばじょう)





国によって築かれた鞠智城(きくちじょう)

飛鳥時代に築かれた古代城・鞠智城(きくちじょう)は国によって、中央政権によってつくられたお城。これだけでも私はすごいと思っている。熊本に熊本城という立派なお城があるけど、あれは加藤清正が肥後国の領主として造ったもの。でもこの鞠智城はもしかしたら、天智天皇が直接造れ!と命令を出したかもしれない。

663年、白江村の戦いで唐に大敗北。唐が攻めて来るかもしれないから、侵略されないよう大宰府を守るために造られた。また、一説では、有明海から攻められたときに備えるためとも言われている。






1300年も前に築かれたお城なので、当時の建物などは残っていないが、発掘調査により、当時の建物が復元されている。

八角形鼓楼

全国で三例しかまだ見つかっていない、とても珍しい八角形の建物。
















今回、特別中を見せてもらえた。ありがとうございます!

芯柱をまるで守るかのように、柱が三重にめぐっており、高さ約16メートル3階建ての立派な建物。1300年前にこんなに大きなものを、木だ
けで作るとは、当時の人たち知恵、腕力はすごい!

毎年ゴールデンウィークにこの内部は公開され、上まで登れるそうです。来年のゴールデンウィークに行き、一番上から鞠智城やまわりの景色を自分の目で確認しようと思う。





発掘調査で以前はここに八角形鼓楼が建っていた。この下に今も遺構が残っている。遺構を残すためにわさわざ違う場所に復元。








大量の灰になった米が見つかったことから米倉として復元。米がネズミに食べられないように、ねずみ返しがついています。よく考えている~











鞠智城城は東京ドームの約12個分の面積をもつ大きなお城。この中をすべて把握するのは短時間では無理。

11月23日、ウォークラリーがあるので参加しようと思う。

古代山城を歩き、きくち城の大きさや防衛、防御を自分の目で、体で実感したいと思う。



歴史公園鞠智城・温故創生館
熊本県山鹿市菊鹿町米原443-1
電話  0968-48-3178


つづく
【熊本・城めぐり】織豊期のお城・南関城(なんかんじょう)  


Posted by 夢☆子 at 11:522014.11 熊本・城めぐりの旅

2014年11月11日

【熊本・城めぐり】中世のお城・竹迫城(たかばじょう)

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2014年11月9日、『古代への旅バスツアー』に参加しました。これ、肥後古代の森協議会主催なんですが、毎年人気でここ2年ほど落選でした。今回も補欠だったのでまたダメか!と思っていたら、ツアー数日前に繰り上げ当選の知らせがあり参加できることにラブ

今回、私が参加したのは『お城ざんまい ~古代・中世・織豊期~』です。まず最初に行ったのが合志にある竹迫城(たかばじょう)。ここ、以前夫とふたりで行きましたが、今回は先生の説明つきなので堀などもよくわかり勉強になりました。





竹迫城(たかばじょう)

合志にある竹迫城。
合志城、上庄城、蛇の尾城とも言われている。

鎌倉時代、源頼朝に合志郡の地頭職に任じられた中原師員(もろかず)によって築かれたお城。

中原師員(のち竹迫輝種に改名)から330年竹迫氏が居城。その後、合志氏が80年居城。そして、天正13年(1585年)、島津氏の侵攻により落城。

竹迫城は南北朝は南朝方の菊池氏や阿蘇氏と戦い、戦国時代は大友氏、龍造寺氏、島津氏と戦い、戦に明け暮れたお城。そういう意味でも、軍事上で重要な位置を占めていたといえる。







現在、本丸の跡に『合志城跡』の碑が建っています。





竹迫城は本丸を三重の堀で守っています。

本丸はちょっと小高くなっており、ここが最初の堀。今は舗装されていますけどね。





左がふたつめの堀。そして右が三つめの堀。

竹迫城は中世城で堀は石垣ではなく土塁。現在は芝生を植え整備されているが、当時はもっと急斜面だったみたい。





今は市民の憩いの場となり、地元の子どもたちが楽しそうに遊んでいる。

敵に攻められないために作った堀で子どもが走り回る和やか時代になり、この竹迫城で亡くなった人たちも空の上から微笑みながら眺めていることだろう。


竹迫城跡公園
熊本県合志市上庄

つづく
【熊本・城めぐり】古代のお城・鞠智城(きくちじょう)
  


Posted by 夢☆子 at 11:192014.11 熊本・城めぐりの旅